知らない事の価値 #14

数々の色々、色々の数々 Infomation

はい、アルゼンチンタンゴダンサのTAMAIです。前回の記事(タイトルを追加してください #13)では、このブログの今までを、写真とそのタイトルから簡単に振り返りました。

前回の写真の僕のつけたタイトルは、《No title is not tile》でした。
初めは、格子状の線(グリッド)を重力の歪みに見立てるアイデアか、グリッドを原稿用紙に見立ててタイトルという内容とかけるタイトルを考えていましたが、シンプルにタイトルとタイルをかけたタイトルにしました。

タイトルと欠けたタイルをかけたタイトルと、欠けたタイトルとタイルをかけた、かっけぇタイトルが書けたタイルを手がけたカエル。(すみません、意味無いです)

さて、僕の写真を使って、または、それぞれ自身の写真にタイトルをつける事にトライした方はいらっしゃったでしょうか。
もしも、トライする事があれば、まずは自分の視点、アイデアからタイトルをつけてください。人がつけたタイトルを見る事によって自身の発想が制限されて不自由になるからです。そのあとで、他人がどのようなタイトルをつけるか知る事は、非常に有益です。自分の発想とのギャップを把握出来るからです。美術館などで、自分ならどういうタイトルをつけるか考えるのも面白いかもしれません。

さて、タイトルの話はこれくらいにして、今回のテーマは知らずにいる事、やらずにいる事の価値、についてです。

多くの事柄において一般的には、何かを知っているという事、何かが出来る事に大きな価値があると考えがちです。ですが、実は知らないという価値の方が、はるかに希少です(希少だから大きい価値があるとは限りませんが)。知ってしまったら、知らなかった事にはできないからです。経験というのは、肉体的にも精神的にも不可逆です。

主観と客観を区別して思考する技術と同じように、知ってしまったとしても、自分の経験に縛られずフラットに思考を運ぶ事、体を動かす事、再現する事はトレーニングによって可能ではあります。ですが、それはシミュレーションにすぎません。例えば、忘れてまっさらな状態で想像をしたと思ったとしても、それがはたして知らなかった時と同じかといえば、それを証明する方法はありません。つまり、取り返しがつかないという意味で、知らない事の方が希少であり貴重なのです。

・当たり前の事を知っている事
・当たり前の事を知らない事
・珍しい事を知っている事
・珍しい事を知らない事

上記の四つのうちで基本的に価値があるのは、珍しい事を知っている事だと考えがちです。つまり、専門性を有する知識や体験です(僕の職業であるアルゼンチンタンゴの技術などもここに当てはまるでしょう)。それは間違っている訳ではありません。
ただし、ここでも視点によってその価値は大きく変動します。

単純に良い悪いで考えてしまうと、当たり前の事を知らない事はよく無い事、だから価値が無いと考えてしまいます。
ところが、もっとフラットに考えた時、

当たり前の事を知らない、というのは、当たり前の事を知らないという珍しい経験に身を置いているとも言えます。
また、珍しい事を知らない、というのも言い換えれば当たり前の事です。

例えば、30年世界中の多くを巡った人にしか語れない事もありますが、30年引きこもって社会から隔絶していた人にも同じように、その人にしか語れない事があるでしょう。

何かの量、その大きさに目を奪われてしまうとその貴重さ大切さを見失ってしまう事があります。量によって考えるか、質によって考えるかというは、別の発想でそのどちらも大切ですが、知っている事を考える事よりも、知らない事を考える事の方が軽視されがちです。というよりも、見過ごされがちと言えます。視点を切り替える事で見える景色は変わります。

量というのは、何をどう測るかにもよりますが基本的には絶対ですが、質というのは相対です。

珍しい事を知っている事に価値がある、いや、当たり前の事を知らない事も同じく、むしろより価値があると言えるね。
待て待て、当たり前の事を知っているというのが最も価値のある事だよ、価値があるからこそ常識になるんだ、という風に捉え方によって変わります。

珍しい事を知らない、という事が大きな価値であるシチュエーションを考えるのが一番難しいかもしれませんね。
よかったら考えてみてください。

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