素敵さと上手さ #3

沈殿する技術 Dance

さて、前回(アルゼンチンタンゴダンサになりました)と言う記事で僕は、

 “上手いダンサではなく、素敵なダンサでありたい。と思っていて、その為にはアマチュアである方が有利だ”と考えいた、
と書きました。

素敵さ、というのは実に様々です。何を素敵と感じるかというのはそれこそ人の数ほどあります。共有できることもあれば全く出来ないこともあるでしょう。基準がなく非常に曖昧です。

その点、上手さというのは明確で、その意味するところは技術(テクニック)です。ダンスで言えば主にフィジカルのことであり、スタイルやスキルの選択の違いはあれど、理屈の上に成り立っていて再現性があります。基本的に例外はなく故に誰とでも共有できます、だからこそ皆上手くなろうとするのです。

ただし、ここで勘違いしてはいけません。
素敵さと上手さというものが同列の且つ相反する概念であるかのよう錯覚しますが、実は素敵さというのは上手さを包含した概念です。

つまり、素敵さを構築する様々な要素の中に上手さも含まれている、ということです。マインドやパーソナリティ、その人の持つフィロソフィといったような、良し悪しを計り難い、こいつ何考えてんのかよ〜わからんな〜って奴らと、実は素敵さの半分くらいを一人で担っている、信頼と実績のテクニック君がいる訳です(実際にはもっといろいろな要素が絡み合っていますが)。

逆説的には、上手さを極めていけば必ず素敵さに辿り着きますが、素敵さを求めた場合、必ずしも上手くはなりません(と言うか、結果的に非常に遠回りであることがあります)。
そして、ちょっと捻って言えば、上手さだけしか求めないのであれば、手に入れられる素敵さは最もありふれた物になります。

多くのプロフェッショナルなダンサは、この素敵さを構成するにあたり、最も重要な上手さ(この上手さをさらに細分化した要素を含む)をどれだけ担保するか、その他の要素をどのように配合するか、それに頭を悩ませているはずです。思想や、人柄、経験、そして技術。技術の中にもスタイルや音楽性、魅せ方。ありとあらゆるものの、配列や配合の仕方にこそ人はオリジナリティを感じるからです。

趣味としてではなく、仕事にするということは言い換えれば、一人だけに素敵だと思われるだけでは、ダメ、と言うことです。
アマチュアではそれが可能ですが、仕事にするのであれば、なるべく多くの人に素敵だと思われる必要があります。そして、仕事だからこそリスクのあるチャレンジは避けようという心理も働きます。ある程度自分の求める素敵さを横において、皆が求める素敵さを提供するようになります。だからこそ、その為にも上手さを手に入れ、育てることが最優先事項であり、それが最大効率という結果になります。何度も言いますが、上手さは、ありとあらゆる要素の中で、最も多くの人と共有できる素敵さだからです。
そうして、あえて語弊を恐れずに言えば、だからこそダンスはつまらなくなります。最大効率を求めると皆同じものになるからです(こういった傾向は別にアルゼンチンタンゴを含むダンスに限ったことではありません多くの分野で共通する、言わば当たり前の現象です)。ここまできて初めてダンサはある選択をしなければいけません。
先ほど、素敵さの配合によってオリジナリティを感じる、と書きました。ようは、この配合についてなのですが、その手前に大雑把な方針のようなものがあって、それが、

アーティストになるかクラフトマンになるか

です。この決定がプロフェッショナルの第一歩なのかもしれないなと僕が感じる一つの分岐点です。

ダンサがアーティストであるためにはスペシャルでなければいけませんが、クラフトマンである為にはコモンでなくてはいけません。

もちろん、これはどちらが偉いといった話ではありません。

これについては、また機会があれば。
さておき、仕事にする場合のそういった葛藤や道筋を経ることなく最初からスペシャルを目指せるのがアマチュアの最大の魅力です。
僕が仕事にしたくなかった理由を間接的に、素敵さと上手さについて考えることで説明しましたが、これらを簡単に伝えたいときに僕がよく使う表現があります。それが、

プロフェッショナルは業界を強くするが、アマチュアは豊かにする。

です。僕は、どちらかと言えば豊かなものが好きなのです。

次回は、プロフェッショナルとアマチュアとその関係についてもう少し掘り下げようかなと思っています。ではでは。

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