さて皆様こんにちは、アルゼンチンタンゴダンサのTAMAIです。このサイト内で僕が書く記事は、今のところ、あまり直接的にタンゴを取り扱わないけれど、もしかしたら無関係ではないトピックについて書いてます。業界内の事についても触れていることはあると思いますが、書かれていることは、もう少し広い視野で、他の業界に置き換えても同じことってあるよね、といった一般論、つまりは比較的当たり前のことばかりです。ですから、今後も特別なこと、が書かれることはないと思います。
もし、それでも何か特別な意味があるとするのであれば、それは内容にではなく、その内容を当たり前だと思っている僕自身に関心がある、またはそういった他人の認識と貴方自身の認識とのギャップを把握する、そこにあるでしょう。特別さとは、外(僕)側ではなく常に内(あなた)側にしかありません。
世の中は、常に当たり前のことに満ちていて、当たり前すぎて見過ごしてしまうことが多くあります。特別なことに目を奪われがちですが、人生において重要なのは当たり前のことです。重要だから当たり前になる、と言えるでしょう。
当たり前のことを、時に疑いながら、当たり前のように行う、これが出来る人というのはもうそれだけで素敵だな、と感じます。もしかしたら特別かもしれません。
当たり前のことを当たり前のようにする、という事は、そんなに難しいことではありません。ただし、それを必ずする事、し続ける事、この2点が加わるともう出来る人はいません。それが出来れば、晴れて聖人君子と呼ばれる存在になるでしょう。
しかし、現代においては、この聖人君子であることを求められることが多いのかな、と感じます。
昔であれば、重要なのは結果でした。そして経過というのは目に見えるものではありませんでした。その為、中には結果を残すために、あまり褒められたことではないような、グレーなやり取りをする者もいたでしょう。周りに似たような人も多くいて目をつむってもらえていた、という事もあるかもしれません。優秀な人というのは、そういった経過をうまく隠しながら、結果を出せる人、という意味でもありました。
ところが、今は経過を重要視する傾向にあります。多くの事柄で透明性が重視されますし、求められるものがそもそもクリーンさでもあります。こういった社会の中では、ズルは出来ません。すぐにばれるからです。ミスに対して不寛容になったともいえるかもしれません。曖昧な処理も難しくなっています。
このゆるやかに変わる時代の感覚を理解しないまま、昔ながらの方法で結果を出そうとして、その途中経過でのズルやミスを追求されるというケースが、最近では少なくありません。
逆に、若い人で当然にある若さゆえの過ちなども、見えすぎてしまうことによって叩かれすぎてしまう、更生の余地のない状況に追い込まれるという事もあります。
昔に比べて今は、はるかに悪事やミスが露見しやすいのです。基本的には増えたわけではありません、目に見えるようになっただけです。
オープンになったこと自体は、好ましいことではあります。しかし、それによって、何かアクションを起こすことに対して消極的になることも当然増えて、リスクを負って飛びぬけるよりも、リスクを回避してほどほどでいようと考える人は多いでしょう。
もし貴方が、漠然と昔の方が活力があった、優秀な人が多かった、昔はこんな事は起きなかった、と感じるのであれば、この辺に理由があるかもしれません。ただおそらくは、昔の方が活力があったかと言えば確かにそうかもしれません。優秀な人はおそらく今の方が多いのでは?起きていたけれど、気づかなかっただけ。見えるようになった、というだけの事でしょう。
求められるハードルは高くなり続けているのです。そのギャップによって錯覚が引き起こされていることには気づくべきでしょう。その情報をどう処理するかは自由ですが。
システム自体はよりオープンに、クリーンにクリアにこれからもなっていくでしょう。そしてミスやバグは多く目にするようになりますが、その分だけむしろ寛容に曖昧に処理することを心掛けても、バランスが取れるかもしれません。
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