はい、アルゼンチンタンゴダンサのTAMAIです。抽象的な事を書きたいと言っていたのに、それなりに具体的な内容になってしまって非常に反省しています。今回は、やっと少しだけ抽象的です。
ある物事に対して、それがどのような形をしているかアプローチしたい時、取れる方法は基本的には2つです。
それは、外側から近づくか内側から近づくか、です。
もちろん、アプローチの方法としては両方必要です。そして、視点に関して言えば、実際には自分が外側にいるか内側にいるかを知るためには、上空へはばたき鳥の眼を持って、広く観察する必要がありますが、今回は自身の位置については把握しているとしましょう。
ある物事の形を知ろうと、自分自身の取る選択の傾向がどちらにあるかを把握しているでしょうか?
僕であれば、外側からアプローチする、その傾向は明らかです。
あなたがアプローチしたい“ある物事”という何かを、仮に“マル”という形で表現できるとしましょう。
(この“ある物事”は、好きな分野に置き換えてください、まあ、そぐわない物事もあるでしょうが、記事中では、これ以降は仮に“タンゴ”に置き換えて書いていきます)
あなたが鉛筆でキャンバスにタンゴ(=ある物事)というマルの図形を黒と白で表現しようとした時、ほとんどの人はまずその境界線を描くはずです。◯のように。しかし、描かれた境界線は境界自体を表現したわけではありません。
その後に、●のように、あなたが内側を塗りつぶすのであれば、境界のように見えたそれは境界の内側の一部であり、外側を塗りつぶすのであれば、それは境界の外側の一部だったに過ぎません。
タンゴとは何か、その境界を探そうと試みた時に、タンゴ自体の歴史や音楽、ダンステクニック、パートナシップにこだわり、練習を積み重ねていく行為は内側から近づく行為、と言えるでしょう。逆に外側からのアプローチとは、タンゴとは直接関係のない別のジャンル、例えば世界史や絵画、フットボール、証券取引や恋人、ボードゲームなどタンゴ以外の物を知ることによって、おぼろげにタンゴの形にたどり着こうという行為です。実際には、その両方の視点から得た情報をすり合わせ、比較することによって、精度を高めます。
基本的には、内側からアプローチしたほうが、早くその境界にたどり着き、タンゴの形を知ることが出来ます。蓋然性は高い、と言えます。実際、内側からアプローチしようとする選択をする人の方が多数派でしょう。外側からのアプローチの方がその全貌を知るまでの道のりは遠いですし、下手をすればたどり着けず迷子になることもあります。
“マル”の内側がタンゴなのであれば、外側は、タンゴ以外全て、です。つまり、内側からアプローチした方が早い、と言える理由はほとんどの人にとって内側の方がキャンバスに対して狭いからです。
内側からアプローチした方が早いにもかかわらず、僕が外側からアプローチする傾向にあるのは、その選択が豊かさに繋がっている、と考えるからです。
僕は、#3(素敵さと上手さ)と#4(プロフェッショナルとアマチュア、その関係)の記事で強さと豊かさについて書きましたが、このアプローチの向きについても同じようなことが言えます。外側の方が広く、広い方が豊かに狭い方が強くなる傾向にあるでしょう。
しかし実際には、タンゴというものを表現する形は、“マル”というシンプルな形をしていないどころか、その全貌は誰も知りません。そして、運よく境界らしきものにたどり着きそこに線を引くことが出来たとして、タンゴを表現する形がいつまでも同じとは限りません。時代や思想によって変わるものもあります。現実の国境と同じです。
ある物事の形とは、境界を知ることです。そして境界とは物事の本質そのものだと、僕は思います。
多くの人にとって本質とは、その形の中央にあると考えがちかもしれません。その正体に近づこうとした時に境界から離れさらに奥に、さらに先に進もうと。それは、数学的には自然数を積み重ねて無限大を求める行為です。もちろん、極めて重要な行為であると言えますが、形を知ることは出来ないでしょう。
本質とは、境界であると言いました。その中心や先にあるのではなく、何かと何かの隣り合った、交わったその狭間にあります。
そして、境界に近づけば近づくほど、あることに気が付くはずです、確かに近づいているはずなのに、いつまでもたどり着けないことに、そして気づけば通り過ぎてしまっていることもあるでしょう。
数学的に言えば、0と1の間、無限小の内にこそ物事の本質は隠れているのです。(まあ、境界を離れ中心に向かった先に、別の境界を発見することがないとは言いきれませんが。何せ形を知らないのですからドーナツ状かもしれません)
今回は、アプローチの向きと、本質は境界にある、という事を書きました。
途中、キャンバスに対して基本的にタンゴを表現する境界の内側の方が狭い、と書きましたが。キャンバスは人生そのものです。人によってタンゴが占める割合、タンゴ自体のサイズは変わるでしょう。とは言え、どれほど大きくなっても、たかが知れています、だってタンゴの外側はタンゴ以外全て、なのですから。
でも本当に一握りの人間にとって、タンゴがそのキャンバスの半分以上を占めることがあるかもしれません。そういった人にとって、人生とはタンゴだ、とかタンゴが人生そのものだった、と表現できるのかもしれません。それが、幸せかどうかは別問題でしょう。僕には到底真似できません。しようとも思いませんが、そういった人は事実存在します。そして本当に一瞬ではありますが、僕もそんな人々に僅かに憧れを感じる時があります。僕にとって、憧れと諦めはほぼ同じ意味ですが。
その形を知るために、内側からにせよ外側からにせよ境界を求めて歩き続ける必要があります。ただ、それらしき場所を見つけても境界は常に曖昧で虹の様です。そして、その本当のサイズも、はたして自分は内側にいるのか、外側にいるのかも、確かめるには鳥になるしかありません。しかし、
自分の中に“ある物事”があるのか、“ある物事”の中に自分が含まれるのか、その関係はフラクタルであり出口はありません。
最終的に、精確な境界は見つからないでしょう。でも、決めることは出来ます。
はい!そして最後は毎回恒例の~、【こんな奴には気をつけろ!】
急に分かった風な顔で、「君は本質が見えてない、本質とはね…。」とか言ってくる奴は信用するな。
では、また次回。
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