はい、TAMAIです。
世の中というのは、常に変化していてその変化に鈍感になった時だけ、人は平穏を感じるのかな、と感じる今日この頃です。
大きな変化を前にすると、小さな変化に気付けないのはよくある事です。大きな刺激を得ると、小さな刺激では満足できなくなります。スペシャルなイベントに注目が集まれば、裏腹にデイリーなイベントへの視線は減るでしょう。
こういった、大きいもの、特別なもの、希少なものに目が行く事自体は、当たり前の事ではあります。ただし、これはドーピングのようなものです、頼ってばかりいると戻れなくなります。刺激に飽きて、変化を失って、どんどん鈍感になっていきます。そういった平穏の手の入れ方もあるでしょう。しかし、僕はまあ、あまり積極的に取りたい手段ではないかな、と思います。
ところが、世の中には、そういった目くらましや刺激、カンフル剤(この表現若い人に通じますか?)を多用する事を好む、またはその性質を利用して誘導したり、ミスリードするためにわざと使われたりする事もあります。全てが悪いわけではもちろんありませんが、そういった悪意が(意識的か無意識的かはあるにせよ)存在する事は確かです。
まあ、それに対処するとして自分で気をつけるしかないですけどね。
小さなもの、日常的な物、ありふれたものへの視線を切らない事、等しく価値ある物だと忘れない事です。
そういったバランスを常に取りながら、揺れながら常に変化し続ける事で平穏を手に入れる事もできます。
そしてここで、一応タイトルを回収していきますが、そういった世の中から身を守る意味でも、ローカルに生きるという事はとても重要だと僕は思います。
ここで言うローカルとは、リモートに対するローカルです。ネットワークに繋がっていない状態、一人で立ち、生きるという意味で使っています(ちなみに、リモートは離れた場所を意味しますが、転じてネットワークに繋がった状態、他人と繋がっている状態です)。
そもそも、人は誰でもローカルでした。
ところが実際に、ネットの普及により人々は簡単に情報を共有する事ができるようになりました。
リモートでも常に繋がる事ができるようになる事で自分と他人の境界線、自身の行動や思考の輪郭が曖昧になり、つまり、自分自身が何を考えているのか、どうしたいのかを自分で決める事が(それよりも先に情報がインプットされる事で)出来なかったり、自身の感情や決定を他人に依存しやすくなりました。そもそも日本人(こういうカテゴライズはあまり好きではありませんが)は、協調性や集団心理、空気を読む事など個人と他人との関係性の中で思考を共有する事が得意ではあったのだと思いますが。
でも、そのせいで今、人間として自立し、確固たる個人としての輪郭が曖昧な人が多いのかなと思います(もちろん、あくまで主観です)。
そして少々飛躍しますが、
自分が、一人の人間として立ち、自分自身の為に生きる他に、他人を幸せにする方法はない、と僕は考えます。
基本的に、人のせいや、他人の為に何かをしたりしてもらおうとする行動を自分の為と認めて行えないのであれば、ただの干渉にすぎません。他人に干渉したい人、というのは一定数います。喜ばれる事もあるかもしれませんが、それはたまたま運が良かっただけです。
常に他人と繋がっている必要は、そもそもありません。以前に書いた知らない事の価値にも似た意味があります。
ローカルな時間が自身を成長させ、ネットワークに繋がったときにその確認をするだけです。
繋がっている事に意味があるのは、独立した物同士だけです。
追記
アルゼンチンタンゴダンサであれば、この感覚は理解できる人もいるかもしれません。あなたと私が一人で立つ事が出来るからこそ、リードとフォローが成立し、リスペクトして、互いに一人の個人として認め合う事で、繋がる事に意味があります。
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