はい、アルゼンチンタンゴダンサのTAMAIです。前回の記事(過激派は語る#10)では、タイトルの通り非常に過激な内容となってしまいました。しばらくは、またトーンを落としてマイルドに記事を続けていこうと思います。
というわけで、今回は“才能”について書いていこうかなと思います。まあ、いろいろな才能というものがあるとは思いますが、そもそも才能って何でしょう。何か特別なものであるかのように感じられているのか、皆この“才能”というものが好きなようです。
でも実際には、一般的に使われている才能という言葉にはあまり大した意味はないので、個人的にはそれほど興味はありません。
では、どういったニュアンスで使われているのか。「才能がありますね」というフレーズを別の言葉に置き換えてみるならば、「とても上手に扱いますね」か、「上手に扱えるようになるのが、とても早いですね」のどちらか。この二つでほとんど言い換えることができると思います。
つまり、熟練度とそれを手に入れる時間の速さを、才能といいます。才能=時間と言っても良いでしょう。僕にとってはそういう意味です。
ダンスで言えば、一つのステップやシークエンスを出来るようになるのにどれだけかかるかです。
これは、発想についても同じです。アイデアや答えにたどり着く為の時間がどれくらい早いか、そしてその時間をどれだけ飛ばせるか、というのが価値になります。10分かけてたどり着くことができる問題に1分でたどり着くことができるのも才能ですが、たとえ思考に10年かけたとしても100年先の発想を得られるのであれば、その才能の価値ははねあがります。いわゆる天才と言うのは、問題を処理する速度はもちろんですが、問題自体が含んでいる時間のサイズが非常に大きいことを意味します。
情報や発想といったものの価値は、時間によって変化しますが、肉体という制約がないので非常に大きなテーマを扱えます。
逆に、身体的な技術は、肉体に依存しますが、何かができることの価値の変動は少ないと言えます。
才能の話から少しずれて、価値の話になっていましましたが、才能というのはただの時間経過というか、現象なんですね。
だから、才能という現象自体に価値があるわけではありません。
書きながら、どこに終着点を置こうか考えていまいしたが、今決めました。
今回はメッセージ色を強く押し出していきましょう。
(以前の記事で“バラ色の人生”なんて、ゾッとする、と書きましたが同じくらい嫌ですね、“メッセージ色のエッセイ”)
もし、才能がないから、何かができないと悩んでいる貴方。または周りにそんな人がいるとしたら、そんなことは全く気にすることはありません。楽観的にアドバイスするのであれば。こうです。
才能なんてあってもなくても関係なく、時間をかければ何でも出来る。やりたければやりなさい、大体のことは出来るでしょう。
悲観的にアドバイスするのであれば、こちらです。
結局のところ、才能があってもなくても関係なく、時間がなければ何もできない。やらなければそれだけ時間ができる。
重要なのは、才能のあるなしではなく、やりたいこととそれにかかるコストを天秤にかける、という発想の価値でしょう。
少なくとも、この発想ができれば、やらない事は増えますが、出来ない事は減ります。
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