はい、TAMAIです。いつも、出来るだけアルゼンチンタンゴについて触れる場合は、一般論を踏まえて間接的に語るようにしているのですが、たまには真っ直ぐにタンゴついて話してみるのも悪くないかな、と自分に甘い判定が出たので書いていこうかな、と思います。
アルゼンチンタンゴの魅力は何ですか?
なんと真っ直ぐな問いでしょう。真っ直ぐすぎて大きすぎて、人によって本当に様々な答えがあるかと思いますが、僕にとってのそれは、アルゼンチンタンゴがコミュニケーションそのものである、という点でしょう。
これは、タンゴがソーシャルなコミュニケーションツールとして魅力的であるということを意味しているのではありません(もちろんツールとしても魅力的だと思いますが)、タンゴを踊ること自体がコミュニケーションであるという意味です。
コミュニケーションを演出することや、表現する事、そういった意味を付加する事は他のダンスや分野にも可能です、でもそれ自体がコミュニケーションを意味する文化は稀少です(唯一ではありません)。
タンゴを踊る事がコミュニケーションである事を忘れてしまうと、ダンスはとても乾いたものになってしまいます。これでいいのかな、正解は何?どうして思い通りに動いてくれない?皆さんも程度の差はあれ体験したことがあるはずです。
しかし、リーダとフォロワという関係こそありますが、タンゴは答え合わせのゲームではありません。
一人の人間と一人の人間が共に立ち、歩き、踊りその事によってコミュニケーションをとる、そういう活動です。
例えば、「1足す1は?」 という問いがあって、それに答えようとした時。
重要な事は数学的な問いとその答えではありません。それがどのような声で、どのような態度で発せられ、答えられたか、です。
相手の答えが、2であろうと、3であろうと、4であろうと、目的が「どんな声でしゃべるのか、君の声を聞きたい」という事であれば、それは達成されているのです。
もちろん、せっかくの問いですから数学的に正解しているに越した事はありません。でも、それにしても、相手は「ピースだね!」と答えるかもしれないし、「あら、お池のガチョウさんかしら。」と答えるかもしれません。
そういった人間のヴァリエーションが溢れ出たやりとりを楽しもうとする事こそがコミュニケーションであり、タンゴの醍醐味の一つですし、だからこそそこに正しさのみに囚われない豊かさや自由さを感じる事が出来ます。
でねでね、一応補足ではあるんですけど、やっぱり重要だなと思うのが、これがダンスによるコミュニケーションだっていう事なんですよ(急に文体もテンションも変わるやつ)。
僕は、このタンゴでのコミュニケーションをさっき言葉によって例えましたけど、コミュニケーションって言うのは、別に会話の事だけじゃないんです。情報のやりとりの事なんです。言葉を使っているのは、それが一番効率的だし、間違いが少ないからです。というか、そのために言葉が生まれているので、当然ではあります。だから、会話が好きなら会話すればいいんです、踊らずに。でも、踊りがいい、踊りたいっていう人がいるんですよね。言葉も万能ではなくて、ダンスじゃなきゃダメって事もあるんです。実際には、ダンスの方が万能じゃないんです。言葉に比べたら、非常に不確実なんだけれども、ダンスでしか交換できない情報であったり、いくら言葉を積み重ねても伝えきれないものを、一瞬触れ合う事によって伝えきる事が出来る、って事もあるんです。錯覚かもしれんけど。その、美しき錯覚又は美しき勘違い(と僕が呼んでいる)、何かが伝わりあったような一瞬の幻想を求めて踊りをやっているのかな、と思います。
踊りや唄って言うのは、コミュニケーションツールとしてはプリミティブなものなんです。目に見えない何かとコミュニケーションするために利用されてきたように。でも、言葉が生まれてコミュニケーションツールとしての有用性は薄れてしまった。だからこそ、今ダンスによるコミュニケーションをするっていうのは、その失われた神性を取り戻す行為であると言っても過言ではありません(過言か?いやそれより急に話題が大きくなりすぎなのよ)。
そして、逆にアルゼンチンタンゴのフォーマットを利用してコミュニケーションする事、アルゼンチンタンゴを踊る事っていうのは、現代において、カジュアルに言葉っていうコミュニケーションツールに対抗できる、変わりうる(タンゴを踊る事自体が世界共通言語と言えるような)数少ない方法だなー、と感じます。
この、コミュニケーションそのものの魅力と、ダンスにおけるコミュニケーションとタンゴにおけるコミュニケーションの役割のギャップ、それらのバランスが僕にとって非常に興味深く写っていて、
それが、僕にとってのアルゼンチンタンゴの魅力、という事で。
皆様にとっての魅力とはなんでしょうか?ではでは。
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